大阪市立大学大学院創造都市研究科都市政策専攻都市共生社会研究分野

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 トップページ > 広報ブログ > 2007年05月31日

フェミニズムと共生社会


 「女性学をやっています」「ジェンダー論を教えています」というと、あからさまに引く人と出会うことがある。
 「分からんチン」だろうと思っている相手がそういう対応をするのであれば、それなりに納得がいくのだが、人権問題の解決に奔走している方や、市民活動を通して地域をよりよくしたいと願って行動している方(=共生社会研究分野でともに学びたいなあ、と思うような方)に「ひかれる」と、「うーん。なぜ?」と思ってしまう。
 とはいえ。実際、町内会やPTA、あるいはNPOなどの、ボランティア組織にあっても、ジェンダー問題に絡んで不快な経験をしている女性は多い。「女の人の入れてくれたお茶はおいしいなあ」のひとことが不愉快だという女性は実は多いのだ。私という個人の淹れたお茶ではなくて、「女」という自分の属性に絡めて私の行為が意味づけされる。表面的には誉めているように見えながら、実は個人を評価するわけではないそのことばに、不快の芽は生じる。
 同じような言い回しは次から次へとやってくる。「女の人は字がキレイだから書記に」「女性はやはり庶務に」「女の人は気がつくから」「女の人のサポートはありがたいなあ」「女性がいるとやっぱり華やかになるよなあ」etc。本人に全く悪気があるつもりはなく発言は続く。
 でも、改めて考えてみれば、やっぱり悪気はあると思うよ、それ。
 他者に対して「個人として認めていないよ」というメッセージになっているんだから。女であることは生まれながらの属性で変えられない。そしてまた、個人のアイデンティティの中でもジェンダー・アイデンティティに重きをおく人は多い。それが分かっているからこそ「女の人は」発言が強制力をもって聞こえるのだし、そう聞こえる効果があることを知っているからこそ繰り返し使おうとするのだ。「そういうのってせこいよ!おっさん。」と私はいいたい。
 庶務やら書記やらその仕事をやる人が必要なら、誰にその役をしてもらおうか皆で考えるしかないじゃない。その役を引き受けられるかどうかは各自の事情にも関わってくる。個々の技量やキャパシティと相談の上、担当を決めるしかないはず。みんな忙しい生活の中であるから、やや消耗しがちな相談になるとしても、「今回は私がやりましょう」「次回はあなたがやってね」という対等の関係の中で仕事を割振ることもできるはず。
 飲んだお茶がおいしければ「ありがとう。おいしいお茶だ」でいいじゃない。誰が淹れてもおいしいものはおいしい。
 それを「女性は」を主語にした表現で語るというのは、要は押し付けたい、押し付ける力を自分が持っていることを示したいという態度以外の何ものでもないわけだ。そのことに全く自覚がないから、そのことを指摘するとそれだけで「責められた」と感じてしまうようだ。でもって女性から「責められた」と主張すれば、女性が「責める」なんて不当だと評価してくれるのではないかという期待も持っているようにも思われる。
 そんなことで「責められた」と感じてしまうのであれば、フェミニズムは確かに「男を責める」かもしれない。
 ここ共生社会研究分野では、女性差別的あるいは男女の役割固定的な発言があるや否や、発言したのが学生であろうが教員であろうが、年配であろうが若年であろうが、男であろうが女であろうが、フェミニズムの意識が高い学生からチェックがはいっている。50も過ぎようとしている男性が「すんません。」と女性陣に謝りまくらざるを得ないことも多々ある。
 でも、そのかわり、個人として互いを尊重することの楽しさが徐々に分かってくる。ことばを大事にしている大学院という空間の中で、誰が何に怒っているか、不快に思っているかを上手に説明すれば、「ああなるほど」と思うことも多い。いろいろな考え方があるなあ、なるほど確かに失言だったかも、と気づきが毎日あって楽しい。はずだ。
 「気づいていないよ!」と指摘されて「ああ、なるほど鈍チンだったかも」と思い、態度変容してみようかと思う。とはいえ、なかなか習慣は変わらず、同じことを厳しく指摘され「すんません」となる。その繰り返しは、互いを寛容にしていくし、対人能力を高めてもいく。(まあ、指摘する側とすれば「いい加減にせえ!」と癇癪も起こしたくはなるのだが、学友というのはありがたい関係で、見捨てないでくれる。)他者の主張をきく寛容さや違う意見の人と接点をもって議論していく能力が、地域や社会を変える市民活動のリーダーにとってはとっても重要な資質だと思う。
 フェミニズムに最初から「引く」のは、おそらくフェミニズムに近寄ると自分が変わらざるを得ないことを予知しているから。でも学んでいくこと、変わっていくことは、とっても楽しい行為なのです。ね、小南さん。

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